いつもの専門家翻訳サイトの記事より。100歳で天寿を全うされたアメリカ39代大統領。まだ合衆国大統領の威厳と矜持と品格が備わった人物のみが就く職務であった時代・・・ああ、どこぞのエロ親父(クリントンの事です)や犬笛老人(説明不要)らを揶揄しているのでは・・・ありますね。
aviation-space-business.blogspot.com
以下引用:
ジミー・カーター大統領が100歳で亡くなった。 大統領職を終えて50年近く経過し、カーターという人物とカーターという指導者の両方を見渡すことができるようになったが、深い論争を呼んだ本人の外交政策の遺産もよりよく理解できるようになっている。
ジミー・カーター:誤解されていたのか?
ジミー・カーターの外交政策イニシアチブの大部分は、冷戦の影の中で形成されたものだ。カーターは、ニクソン政権とフォード政権が進めたソ連とのデタントを土台にすることを望んでいた。しかし、カーターのソ連に対する見方は進化し、外交政策の中心を占めるようになった。
特に人権を重視した結果、モスクワへの見方はますます暗くなった。 ソ連のアフガニスタン侵攻を受け、アメリカはソ連が樹立したアフガニスタン政府に対する反政府勢力を秘密裏に支援し始めた。これには最終的に、パキスタン、サウジアラビア、インド、そして大ざっぱな資金提供者や密輸業者のホストを含む複雑な仕組みが絡んでいた。この侵攻を受けて、カーターは1980年モスクワ・オリンピックのボイコットを発表した。この決定は、ワシントンが利用できる最も明白な「ソフト外交」ツールのひとつを台無しにし、カーターが大統領を退任する際に米ソ関係に厳しい道を開いたとして、今も物議を醸している。
しかし、カーターは単にタカ派だったわけではなく、米ソ間の戦略的軍拡競争をさらに制限することを目的とした一連の協議であるSALT IIを始動させた。残念ながら、この努力は共和党とタカ派の民主党によって頓挫し、レーガン政権まで実を結ぶことはなかった。
引用おわり。続きは上記サイトを参照下さい。
当時大学生だった身としては人権外交という言葉をやたらメディアが喧伝していたのを覚えている。人権の定義は所謂西側の定める人権基準であったのだが。
21世紀に生きる私達は人権の定義が国家体制(場合により国家)により異なった定義が存在する事を知っている・・・思い過ごしでしょうか?
海軍の原潜乗りであったカーター大統領はB-1計画をキャンセルし(ATB:後のB-2:の為とも言われる)SALT2を始動させたが、イラン革命でのアメリカ人人質事件での対応の不備(失敗)等、特に経済政策の不調で共和党のレーガンに敗北する事になる。
当時映画俳優が大統領に・・・で話題になったが同じ共和党でも元役者の方が元不動産屋よりは同じ銃撃事件を経験(レーガンは大統領時代)した人物でも・・・まあ、言っても詮無い事。これも民主主義。
カーター元大統領は猫好き女に投票したそうだが彼の願いは(人権外交という意味も含めて)叶わなかったのでありました・・・
ご冥福を祈ります。