不寛容な人達とそのシステム

 世の中歴然とした差別・区別が存在するのにそれを無視してやれ平等だの差別は良くないだの言語ロンダリングである「ポリコレ、ダイバシティー環境テロリスト」等が跋扈しているようでそれを批判すると「差別だ、教養が無い、市民としてあり得ない」等と有難いお言葉を頂く場合があるらしい。この手の「不寛容な人達」の思考パタンは単純で「自分たちの思考回路に1mmでも適合しない物は排除、場合により抹消」が基本でこれは俗に言うファシズムスターリン毛沢東共産主義との親和性が高いと見えてしまうのは気の所為だろうか。この手の輩は自分が権力を握るとやりたい放題で(2009年の悪夢の民主党政権が悪しきサンプル)所謂活動家さん達は民主主義を否定して自分たちが権力を握る為には手段を選ばないからそういう団体は我が国では公安監視対象になっている訳で(共産党とか共産党とか共産党とか過激派とかカルト宗教団体とか)法治国家である我が国含めた民主主義世界ではそういう輩が活動しても法に触れない限りは行動を制約される事は無い。ところがその法律の隙間を逆手に取って権力拡大を着々と進めているのが差別という差別が大好きな「不寛容な人達」ではないかと勝手に考えている。具体的にはどこぞの日本学術会議の活動家を不採用にした政府に国会で蜷局撒いてるいつものおバカ野党(村田、コニタン、生コン、ゴリラ女、他)が挙げられるが残念ながら相応の社会的地位がある筈なのに社会経験が乏しい為か?一般常識に著しい欠如が見られるのも共通する特徴でこういう属性の集団の総意がタイトルに挙げた行動パタンを示しがちではないかと推測する。無論十人十色で音に敏感な人や匂いに敏感な人、特定の言動に異様な反応を示す人など人夫々個性に溢れているものではあるが「不寛容な人達」はそれを更に微分したようなエッジの鋭さを特徴とする。彼らに寛容も協調性も理解力も無くひたすら壊れたレコードの如く教条を繰り返すだけでそれ以外は「排除」となる。こういう社会人適性に疑わしい(実際上記の方々は民間企業や社会人経験の乏しい方が多いと聞く。まあ頭良すぎて苦労した事無いのだろうね、ああ羨ましい(棒)。)方々が多いのは単なる偶然では無いのだろう。そういう意味では世間知らずのお山の大将(失礼)である6名の「センセイ」方もその範疇に適合するのもこれまた偶然では無いのだろう。一見正論に見える言動・活動による圧力行為でそれを正当化させてより浸透を図るのは奴らの得意技でそれを嘆いているだけでは駄目なのでしょうね。私達愚民は彼らの如き(自称)進歩的知識人のカモやコケにされている事に気づかせてくれた菅政権には感謝しているがメディア様と提灯ライタの強烈なバイアスに負けぬ様ご健闘を願っております。